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歴史と由来
約270年の歴史
浜崎祇園祭は、諏訪神社の祇園社(本殿左奥)の祭礼です。
起源は明らかではありませんが、江戸時代中期の宝暦三年(1753)に、漁師の網元・中村屋久兵衛が疫病退散、五穀豊饒を祈念して、博多櫛田宮の祇園山笠を模した山笠三台を造ったと伝えられています。

三台の山笠は、浜区、東区、西区の山笠として今日まで継承されています。
当時は享保の大飢饉、天明の大飢饉の闇の時代で、作物の不作、風水害等によって庶民の暮らしは困窮していたと考えられ、疫病退散、五穀豊饒という願いは切実な思いであったと推察できます。
その後、祈念の一つに商売繁盛が加えらています。

元来旧暦6月15日前後に催していましたが、近年までは7月14日・15日に、昭和60年より7月の最終土・日曜に変更され、平成8年からは7月20、21日に定められました。
昭和30年代には、何度か旧暦7月14日、15日で行われています。
当時の浜区の漁業は鰯漁が盛んで、ちょうど満月にあたる両日は漁を休めたという理由から日程が決定されました。

昭和7年 浜区山笠
昭和7年7月14日 浜区山笠
外題:里見八犬伝 犬江親兵衛霊虎退治
写真には、「北方大黒丸ノ前ニテ 太郎二才」と書かれています。(“山笠写真集”にて大きな画像で閲覧できます)
昭和25年写真の裏書
二十三年ハ ナシ 二十四年モ ナシ
「青年デ古山ヲ飾テ引テ区長ニヲコラレタ」とあります。

祇園祭に関しての記録はほとんど現存しておらず、写真資料や聞き取り調査で確認できたのは昭和初期までです。

第二次世界大戦直後の昭和20年から22年までの3年間、西区では祭法被の代わりに消防団の法被を着て、裸蝋燭で山笠を曳いたそうです。

昭和年間に祇園祭が3度中止になっています。そのうち昭和23年と翌24年の中止は、第二次世界大戦終戦後の混乱と資材不足によりやむなく中止となりました。しかし、祇園祭を待ち望む青年たちは、通常の山笠には及ばないものの、浜区、西区では山笠の台車に飾り付けをした山を、東区ではリヤカーを山に見立てて町内を曳いたそうです。

昭和36年には、赤痢が蔓延し中止を余儀なくされました。この年、東区は台車のみ曳いています。

最近の中止は、平成7年で、台風接近に伴い二日目が中止、そして20年後の平成27年、こちらも台風接近により、二日目が中止となりました。


 
巨大な山笠 高さの移り変わり
浜崎祇園山笠は、県内でも最大を誇る高さ15メートルの巨大な山笠です。
明治42年(1909)の山笠は高さ八間(14.4メートル)、大正14年(1925)には高さ60尺(約20メートル)もあったことが当時の新聞に記されています。
町の近代化に伴い電線や電話線が町の空を張り巡るようになった頃、北部九州各地の山笠は高さの問題に苦慮しました。博多祇園山笠のように飾り山と舁き山が別々になったところや、山笠の高さを低くしたところが多い中、今日まで当時の高さを保持している点で浜崎の山笠は貴重な存在といえます。

浜崎の町民にとって、祇園祭が何より大切にされていたことを物語るエピソードとして、大正12年(1923)に電話が導入される折、電話線が山笠の邪魔になるという理由で電話はいらないというほどだった、という話が残っています。
その後、電線や電話線に山笠が接触することを防止する為に、山笠の上に人が上がって竹の棒などを使い電線を除けたり、祭の間は地下に埋設するなどして曳いていました。

高い山笠を支える為に、一尺(約33.5cm)角のミカゲ石を重石に乗せるなどしていましたが、昭和15年に高さを5メートル低くして13メートルにしたのではないかと言われています。高さは終戦時までこのまま維持されました。
 

しかし道路整備が進み路面をアスファルトで覆うようになると、電線等の地下埋設ができなくなり山の高さを低くしなければならなくなりました。
昭和30年代はちょうどそのような時期にあたり、当時何度か低い山笠で町内を回りました。その後、少しずつ高さを取り戻した山笠は、電柱を高くすることにより現在の15メートルに至っています。

 
浜崎祇園祭今昔
山笠の構造

昔の山の「げだん」の長さは前方が長く、後方はその3分の1程度出していました。現在は前後はほぼ同じ長さを出しています。
山笠の前面を「オモテヤマ」、後面を「ウラヤマ」と呼び、両面とも飾り付けをするようになったのは明治期からで、「オモテヤマ」には主に時代ものの表題が、「ウラヤマ」にはおとぎ話など子ども向きの表題が選ばれます。
一昔前まで各区には、町の人々から「やまつくりさん」と呼ばれる、人形や館などの飾りを一手に引き受ける製作担当者がいました。浜崎祇園祭で使用した人形は、祭が旧街道を経て各地に伝わったのと同じく、呼子や鎮西町などの祭に貸し出されていました。そのような事情もあり、山笠の飾り付けの際には「やまつくりさん」の厳しい監督指導があったそうです。
現存する昭和初期の山笠の写真を見ると、「やまつくりさん」たちの技術の確かさ、飾りの見事さに驚かされます。
残念ながら現在は後継者がおらず、人形だけは直方から借りています。また、諏訪神社の縁起(※)により、蛇や鷹に関するものは飾りにしません。

台車の上に5本の柱を立て、山笠の骨組みを組み立てる作業に丸一日、飾り付けに約2日を要して美しい山笠が出来上がりますが、この工程は今も昔も変わっていません。山笠の中心になる柱は、西区は億昌寺、東区は瑞雲寺、浜区は西福寺の本堂の床下などに保管していましたが、現在は浜崎祇園山囃子保存会館に設置された保管庫に置かれています。

※『松浦古事記』浜玉町史・下巻より
仁徳天皇の時代、百済の誓来という者が、朝廷に鷹を献じ大矢田連の娘諏訪姫がこれを受けて、鷹匠の術を受ける。三年後、誓来は唐土の浦(今の浜崎)より帰国する。その折、姫もこの地まで見送ったが、愛鷹は麻・小豆・胡麻の畑で蝮に巻き殺された。姫はこれを悲しみ自害してしまった。里人はこれを悲しみ本社に諏訪前命として合祀した。

  
ハッピの話

山笠を曳く人たちは、背中に西、東、浜とそれぞれ文字を染めたハッピを着ます。
現在は統一したデザインのハッピを着用していますが、昔は各区で毎年柄を選んで新調していたそうです。
祇園祭の20日ほど前になると、呉服屋さんから柄の見本を借りてその年のハッピの柄を決め、一人分ずつ反物を切りわけて各自家庭でハッピを縫っていました。また、浜区の漁師は、そのハッピを漁をする時の仕事着にしていました。
ハッピの柄選びも祇園祭の楽しみの一つだったそうです。 


現在のハッピ

 
なべすみの塗りあいの話

昔、各家庭には「おくどさん」と呼ばれるカマドがありました。どのような謂れか、このカマドのなべすみをお互いに塗りつけ合うということをしていたそうです。
西区では組み立て前の山笠の台車を出して駅前の井戸で洗った後に、東区、浜区では祇園祭の後、台車を浜まで運んで潮水で洗った後に、お互いの顏などになべすみを塗りつけあっていました。
特に新婚さんが狙われたという話も。一番大変だったのは、油をつけた手でなべすみを塗られた時で、なかなか汚れが落ちなかったそうです。
県内の風習を調べると、なべすみを塗るという行為には「無病息災」の意味があるようなので、災難除けの意味合いでなべすみを塗りつけ合っていたのではないかと考えられます。
ちなみに、潮水で台車を洗うと、虫がつきにくくなり、台車が長持ちするそうです。 
 
 
ねどりの話


山笠の台車の前方を曳く「ねどり」と呼ばれる位置があります。
この位置を任される人は昔は兵隊検査に合格した人でなければ務められなかったそうです。それだけ体力を要します。
上半身は裸で力強く山笠を曳く姿は、少年たちの憧れの的でした。
現在のように道路がアスファルト舗装されていない時代は、凹凸のある道に山笠の車輪を取られ、山笠を曳くこと自体がなかなか大変だったそうです。
 
●口説き 


浜区や西区では数年前まで「大回り」の最中に
「口説き」をおこなっていました。

口上 [西区]
STOP

 
 

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